高田商店について

高田商店の歴史


先代の祖父(とはいえ、まだ現役ですが)

高田 登は日本莚業 株式会社に就職しました。


日本莚業はイ草の商社としてスタートし

「倉敷緞通」の織元として全国に名を馳せた会社です。


当時祖父は日本莚業のイ草の買い付けの仕事をしていましたが

安い輸入物に押され、日本莚業はイ草から撤退。

その後、祖父は「倉敷緞通」に携わる事になりました。


日本莚業からの独立


祖父は「倉敷緞通」の職人として勤めた日本莚業を

二十数年勤め上げた後、昭和47年に結婚をきっかけに退社、独立します。


そして倉敷民藝館 初代館長 外村先生に「倉敷手織緞通」の名前と「登柄」を頂き

独立してから35年、合計55年もの間も「倉敷手織緞通」を

祖母と夫婦2人一丸となって織り続けてきました。


「倉敷緞通」の織元である日本莚業が、

課税、原材料の高騰化、職人の高齢化

値段の安い輸入緞通の普及、など様々な理由により廃業。


職人は祖父1人になってしまいます。


機械織り、輸入絨緞などに押され大変悪条件の中

「手織り緞通」を守り続けてきました。


先代夫婦から娘、孫へ


祖父母が70代を迎え体力的にも年齢的にも

「倉敷手織緞通」を織る事を断念・・・しようとしましたが

娘の下原真澄とその息子次男の孔明が

平成7年に跡を継ぐ事を決意。


以後、先代の祖父の元で指導を受けます。


ですが職人肌で頑固で厳しい祖父の下でしたので

祖父の納得のいくものが出来上がるまで

何度も何日もかけて制作した緞通を捨てられ

もう辞めろと糸を切られる事もありました。


商品として世の中にだしていいといわれるまで三年もの年月がかかり


平成10年4月に下原真澄・孔明が織元として

正式に「倉敷手織緞通」を織る事になりました。