倉敷手織緞通の誕生
祖父の高田登(現在80代)は10代の時、
日本莚業 株式会社に就職します。
最初はイ草の買い付けの仕事をしていたが
輸入物に押されてイ草から撤退した後、
倉敷緞通の職人として仕事に携わっていきました。
日本莚業 株式会社に20年間勤めた後、結婚をきっかけに独立。
祖母に一緒に二人三脚で緞通を織っていく事になります。
独立当初は日本莚業 株式会社はまだ緞通を織っており
「倉敷緞通」の名前を使う事ができなかった為、
倉敷民藝館 初代館長 外村 吉之助先生に
「倉敷手織緞通」の名前を頂き、
以後、祖父から娘、孫と代を経て、緞通を織って参りました。